成人式と真如

昨日成人式があった。
久しぶりに会う子どもたちのはつらつとした姿が印象に残った。
しかし、これからのさまざまな苦難を思うと、ただ良き縁にめぐり合うことを願わざるを得ない。
 
祝辞等の話を聞いていると、つい仏法の立場で聞いている自分がいる。
この世界を、私はそのまま、ありのまま見ることができない。
今まで身に着けてきたさまざまな言葉や制度や環境が入り混じり、
喜びや悲しみの感情が入り混じり、この世界のありのままの姿はとうてい見ることができない。
あるがままの世界とはどんな世界であろうか。
 
仏法ではそれを無為(=有為)、一如、真如、法性とかいう。
 
しかれば仏について二種の法身まします。ひとつには法性法身とまうす。ふたつには方便法身とまうす。法性法身とまうすは、いろもなし、かたちもましまさず。しかればこころもおよばず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして方便法身とまうす。その御すがたに法蔵比丘となのりたまひて不可思議の四十八の大誓願をおこしあらはしたまふなり。
 
この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無碍光仏とまうすひかりの御かたちにて、いろもましまさず、かたちもましまさず。すなはち法性法身におなじくして、無明のやみをはらひ、悪業にさへられず、このゆへに無碍光仏とまうすなり。無碍は有情の悪業煩悩にさへられずとなり。しかれば阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし。
 
真如は私には見えない。
しかし、その真如からのさまざまなはたらきがある。
方便法身となり、念仏となり、無量無数の応身となって私に働きかけている。
智慧の光となって。
 
子どもたちが感謝の言葉を述べていたのは、このことだろうと思った。