人はなぜ死ななければならないのか

 
三受について考えていたら、次のような問いが浮かんできた。
 
問い
人はなぜ生まれ、苦労し、死ななければならないのだろうか。
人が動物とは違って意味を考えるべく生まれたとしたら、生きるということの意味は何なのだろうか?
 
一切有為(=私たち)は、皆これ無常なり。虚空は無為なり。この故に常と為す。仏性は無為なり。この故に常と為す。虚空は即ちこれ仏性なり。仏性は即ちこれ如来なり。如来は即ちこれ無為なり。無為は即ちこれ常なり。常は即ちこれ法なり。法は即ちこれ僧なり。僧は即ちこれ無為なり。無為は即ちこれ常なり。
 
一切の群生海(=私たちは)、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで穢悪汚染にして清浄の心無し、虚仮諂偽にして真実の心無し。無始よりこのかた、一切の群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽無し、法爾として真実の信楽無し。微塵世界の有情(私たちは)、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心無し、清浄の回向心無し。
 
この一切有情(私たち)の心に方便法身誓願信楽するがゆへに、この信心すなはち仏性なり。この仏性すなはち法性なり。法性すなはち法身なり。