除夜会

先ほど除夜会を終えました。
12時になったら、鐘が鳴り始め、風情がありました。
 
雪の中を、例年よりもたくさんの方にお参りいただきました。
 
あまりの寒さに足が冷たくなり、今コタツで温めています。
 
今年の年越しは、教行信証の証巻を読みました。
現代語訳で通して読みました。
論註の広略相入と仏の方便力が訴えてくるもの・・・
これをもっと読み取らねばと思いました。
 
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法を依(よ)りどころとし、自らを依りどころとせよ」(自灯明・法灯明)
 
今まで、「言葉」と「指し示されるもの」との関係で見てきたが、真実を指し示すためには言葉に頼らざるを得ないと、曇鸞大師や親鸞さんが考えていたわけではない。
 
言葉は一つのはたらきなのだ。はたらきには言葉以外にある。いやはたらきは言葉以外の方が多い。そして、それを表現する手段は言葉以外にもたくさんある。
 
仏法で、「はたらき」とは真理のはたらきであり、仏のはたらきであり、浄土のはたらきである。
 
曇鸞大師はその真理のはたらきを二つの言葉で表している。
 
方便法身と法性法身である。
法性法身とは真理そのものの体、方便法身とは具体的な形を現した体のこと。
この二つの体は、相互に互いを生じさせ、分けることはできない。
私は、その関係を法則と応用のようなものととらえている。
曇鸞大師の広と略の思想である。
広は具体化、略は抽象化と言っても良い。
どちらもはたらきである。
ただ、この場合は衆生済度の仏のはたらきである。