指月の譬え その3

 
では、我が親鸞さんは、この譬をどのように使っているのだろうか。
 
「(釈尊が)涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。
法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。
義に依るとは、義のなかに好悪・罪福・虚実を諍ふことなし、ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。
人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りていはん、《われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。
これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもつてのゆゑに、語に依るべからず。
智に依るとは、智はよく善悪を籌量し分別す。識はつねに楽を求む、正要に入らず。このゆゑに識に依るべからずといへり。
義経に依るとは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書のなかに仏法第一なり。一切衆のなかに比丘僧第一なり〉と。無仏世の衆生を、仏これを重罪としたまへり、見仏の善根を種ゑざる人なり」と。{以上}
 
と直接大智度論を引いている。
その違いが気になる。大智度論には次のように書いてある。
大きな違いは赤字の所である。
 
「義に依るとは、義の中は無諍なり、好悪、罪福、虚実の故に、語を以って義を得るも、義は語に非ざるなり。」
語は義の為に指すも、語は義に非ざるなり。」
 
つまり、大智度論は、「意味は言葉を持って意味を示そうとしているけれど、意味は言葉ではない。そして、言葉は意味を指し示しているけれども、意味そのものではない。」ということだ。
 
ところが、親鸞さんは
ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。」
語は義の指とす、語は義にあらざるなり。」と読む。
 
つまり、「言葉はすでに意味(教えの内容)を持っているが、意味は言葉そのものではない。」
「言葉は意味を指し示しているが、言葉は意味そのものではない。」
 
と、明確な違いが認められる。親鸞さんは、言葉を肯定的にとらえている。この違いは、曇鸞大師の譬を意識しているのだろう。そして、仏や祖師の言葉そのものを用いて、真実の教えの内容を示そうとしていることを意味している。
仏や祖師の言葉の中にすでに真実の教えが示されているのだけれど、私たちは、指ばかり見て月を見ることができないということだろう。
私たちの言葉は口から出る言葉も含まれる。私の口から出た言葉の意味を考えると、それはまさに好悪、罪福、虚実が入り混じっていることがわかる。