浄土の現象面と理論面

立て続けに二つのページを法話の中に書きました。
一つは「ベッカー教授に聴く」
もう一つは「浄土の思想」
 
「ベッカー教授」の方はビハーラの面から浄土を示したもので、
「浄土の思想」は、維摩経仏国土をキーワードに浄土の一面を示したものです。
 
「死に逝く人たちが、その死の間際に見えるものや聞こえるものを大事にすることによって、
初めて、お浄土の実在と意味合いが明らかになってくると思います。」
というベッカー教授の言葉と、
「浄土は心に中にあるのでも、架空のものでもなく、実在するものです。」
という文章は矛盾するのではと思われる方もいるのではないかと思いますが、
浄土という処を、それぞれ別の面から見たものです。
 
ベッカー教授は、臨死体験などから現象として浄土を見つめ、
私は、仏典などから理論として浄土を見つめただけで、同じ浄土だと思っています。
 
ある意味では、「死にゆく人が見える浄土」と「生きているものの浄土」が同じであるということを
示したかったのかもしれません。
臨死体験を脳内現象として説明することもできるのかもしれませんが、
私は「人間の生の問題」としてとらえた方がわかりやすいのではと考えています。
 
でも、それも独りよがりな考えかもしれません。