Iとmeとmine

イリアム・ジェームスの説
 
私(self)という意識主体が経験する様子を分析すると、
me と I に別れる。
meは何かを考えたり行ったりするとき、心的な経験をしている《私》。
Iはその私をさらに自覚している〈私〉。
 
自分を見ている私をIというのが面白い。
 
もう一つ、mine=「私のもの」という意識がある。
ジェームスの発見は、
《私=me》と「私のもの=mine」は区別することができない
両者は重なり合った心的経験である
というもの。
 
わたしたちは自分のものと感ずる事物については、自分自身と同じように愛着し、
その度合いに応じて行動する。
この場合の私は《私=me》で、上記のことを感じているのは〈私〉。
 
私の評判、私の子ども、私の作品については、
私の身体と同じような親愛感を抱き、
これらが傷つけられると、自分の身体が傷つけられたかのように報復したくなる。
つまり、meである《私》は、「人間が『私のもの』と呼びうるすべてのものの総和」
私の能力、身体、祖先、友人、仕事、家、土地、預金、車、などすべて『私のもの』
つまり、《私》である。
 
これらが、大きくなると《私》も拡大し得意になる。
反対にこれらが小さくなって衰えていくと自我縮小感が生じ、意気消沈する。
 
その起源は、動物の持つ「なわばり」
私たちが「私のもの=mine」を侵されるたときに持つ感情は、
鮎のなわばり行動と変わらない。
《私》を存続させるためのものなのだ。
 
釈尊も同じことを発見している。