「機の深信」は「前念命終」

昨日は、病院と永代経のしらせくばりをした。
歩いて配っている途中で、めまいを起こし、それからは頭痛がおさまらない。
たぶん熱中症だろう。
途中で、大丈夫かと声を掛けていただき、休ませてもらった。
 
病院で待っている間に、清真人の「経験の危機を生きる」を読む。
これは、以前に途中まではさっと読めたのだが、8章は分りにくかったので、
そのままにしておいたのを、たまたま手にとって、持っていったものだ。
 
読みながら、前日の「お迎え現象」とつながってしまった。
こういうことはよくある。
それまでわからなかったことが、何かの偶然でつながってしまい、理解が進むことが。
 
(1) 死に瀕した人間、死を強烈に意識した人間の目には、今まで見慣れていたはずの<世界>があたかも、はじめて出あった<世界>であるかのように、そのみずみずしい新鮮な<存在>の輝きを発光する。
 
(2) 突然に我々は自分の眼=意識に、自分のまわりの事物が「もの」として新しく実在しはじめるのに気がつく。「空はこのように青いものであったか」
「木の葉はこのように光をはねかえす、硬い研磨された石のごときものであったのか」
というような感覚。
 
(3)つまり、存在の経験は、否定ないし、無化の経験と背中合わせの両義的な関係性において、はじめて経験として、人間の意識の中に発光するのである。
 
この部分を読んでいたときに、善導大師の「二種深信」が思い浮かんだ。
「機の深信」は、
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、広却よりこのかた、
  つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず」
である。
これは、自らの否定、無化の経験なのではないのだろうか。
どうにもならないことを自覚した時に、新しい見方「法の深信」に至る。
 
そして、そういう無化の経験は、「ときはなち」の経験であり、そのような「ときはなち」を人間にもたらすはたらきを、死の意識は自分のうちに潜めているものなのだ。したがって、死の意識は決して虚無の意識ではない。
 
この部分は、先日の「お迎え現象」とあい通じる。
人間の脳にはそういう「はたらき」があるのだ。
「機の深信」は、死の意識とつながるからこそ、「前念命終」と言えるのだろう。