「ほんもの」というとらえ方では分析できない

今日は、友人のお見舞いに行った。
私たちの仲間も、ほとんどが手術を体験し、入院をしている。
それぞれの病気に対して、病院の紹介や体験談などを紹介したらどうか、
などというアイディア?まで飛び出した。
 
さて、病院へ行くまでの1時間ほどで、思いついたことを書きとめておこう。
東井義雄氏のことである。
 
(1) 「村を育てる学力」は、教師に向けた説教ではないか。
 だから、子どもたちの記録という面が薄いのではないか。
 
(2) 東井氏の厳しいまでの自省は、教師としての姿勢を追及しているが、それは真宗的であり、子どもたちの変化は正確には書かれていない。
 だから、教師の方は確かに成長しているといえるが、子どもが成長しているといえるのだろうか。
 
(3) 厳しい自己内省の結果、子どもたちへの対応を変えた。その結果、子どもたちの成長や変化が語られている。 しかし、そこにはどうして子どもたちが変わったのかということは書かれていない。
 それは、「ほんもの」のいのちのふれあいは、「他力的」なもので、教師の方からの意図的な働きかけは全て否定されている(自力として否定)からではないか。
 
いのちのはたらきは、縁起的なものである。
だから、教師の側の意図的なはたらきかけを卑しいものとしてとらえる傾向があるのではないか。
確かに、東井氏は児童中心主義を批判しているが、そこにある「いのちのいとなみ」としての子どもたちの反応は
「他力的」なものとして祭り上げられているのではないか。
 
大西氏の読みは、本当に学べるものこそ、批判的に分析するというものであった。
だから、私も、教師としても僧侶としても尊敬する東井師だからこそ、批判的に問題提起を試みてみた。
 
(3)については、私自身への問題提起でもある。