「村を育てる学力」と「村を捨てる学力」

昭和30年代に書かれた東井義雄の「村を育てる学力」には、
当時の農村の過酷で閉鎖的で頑迷な姿が描かれている。
 
そして、都市部と比べ農村部の子どもたちの学力が低いのは、
村の生活の希望の無さからきていて、
子どもたちに進学・就職の道を拓いてやることによって、
希望を与え、学力の昂揚を図るべきだという行政の方針を「村を捨てる学力」であると批判している。
 
実際に、それ以後の高度経済成長は、まさに、学校が村を捨てる学力を育てていたといえる。
東井氏の「村を育てる学力」は、村を見捨てず、愛し、育てる主体性をもった学力である。
 
それの道を様々な方法を駆使しながら探っていくのであるが、
その時に民主主義や近代化を前提に持ってこない。
 
彼が、第一番に持ってきたのは、子どもなのだ。
子どもが育つ村だから大切ななのだし、子どものかけがえのない味方である親とも手を結べるのである。
そして、子どもや村のしあわせのために、民主主義や近代化の精神を奉仕させるのだと考える。
 
村の学校が担っているのは、
「自分たちのくらしを、少しでも合理的な、むだのないものに育て上げることのできる力をもった知恵・生産力を高めていくことのできる力としての知恵である」
と規定している。
そして、実際に学校の畑で麦を作り、村の畑よりもはるかに優れた収穫をあげさせている。
 
この後の高度経済成長政策によって、農業の機械化が始まり、
農村部から都市部への労働力の移動がおこなわれ、
現在の農村部の高齢化にともない限界集落と化していった歴史を振り返ると、
その希望や学力が実現されたといえるのだろうか。
 
これは、一面では実現できたともいえるし、
「村を捨てる学力」の方が大きかったともいえる。
 
東井氏は、この世に生まれてきた「生まれがい」という言葉を使って、
自分のものとしてかわいがり、自分のこととして考える行動的学習こそが
「生まれがい」を発揮してくれるちからになるとしている。
 
さらに、大無量寿経の「田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂え・・・」を取り上げ、
しあわせとは「物」のあるなしによって決まるものではなく、
それをしあわせだと知ることができるかどうかによって決まると述べ、
進歩的なものよりも大切であり、
「あれかこれか」よりも「あれでもない。これでもない。あれでもある。これでもある。」という
発想の方に、村を育てる鍵が画されていると語っている。
 
今、戦後の施策を振り返りながら、次の方向を考える時、
この「あれかこれか」ではない道、
「あれでもない。これでもない。あれでもある。これでもある。」という道は、
今こそ生かされなければならないのではないかと思われる。