回向(えこう)論

最近身のまわりでおきている出来事は、
それがどういう意味を持っているのかということと
そこから学んだことが、時間がたつと何も残らない
ということを示している。
 
と、書きながら何を意味のわからないことを書き始めたんだと思う。
少し説明がいる。
影響を受けた本の紹介をするために、本を読んだ。
影響を受けたのなら、読まなくてもその影響は残っているはずなのに
と思ったのである。
 
記憶は不思議なものである。
私にとって、エピソードのとしての記憶は、何回も思い出すことのよって
強化されたり、新しい意味を付加されたりする。
ところが、そういった意識的なもの以外の中に、
影響を与えているものがあるのだ。
 
子どもたちには、身につくまでやらないと学んだことにはならないと
言っていたけど、身についたことは、逆に意識に上ってこない。
 
仏教に回向(廻向)という言葉がある。
往相廻向と還相廻向の話を聞かれた方もいるだろう。
一般には、回事向理、回因向果、回自向他の三種回向を示す。
起きた出来事を回して理論に向かわせる
因を回して果に向かわせる
自分を回して他に向かわせる
実際回向、菩提回向、衆生回向である。
 
私たちはこれを自然におこなっている。
そうするのが人間の持っている性質なのだろう。
それが自然だからこそ、意味がわからなくなったり、何も残らないという
ことも当たり前なのかもしれない。
 
だから、本をもう一度読むことによって、そうだったのかと再認識したのである。
全ては、そこにあるのだけれど、自覚に上って来ないことがあるのだ。