「市兵衛文書」をテキスト化しようとしていたけど、「喜四郎文書」の方が先だと思うようになった。というのは、伊藤克司氏の論文を読んでいて、宝暦騒動の影響の大きさを忘れてはならないと感じたからだ。
市兵衛文書を書いた三島勘左衛門さんは、鷲見に来て書き写している。
その時期は、安永騒動で島流しの父甚兵衛を介護する為に新島に渡る前なのだ。
鷲見の大屋氏は宝暦騒動のことを踏まえて、市兵衛文書の写しを頼んだのだろう。
宝暦の前後に高鷲では地域の歴史が書かれている。
鮎走由緒書は宝暦2年に書き始められている。
喜四郎さんは公事宿秩父屋で、『美濃国郡上郡御城主後代ニ附』という郡上城主郡上藩主の移り変わりと年貢の事を写している。
喜四郎さんは訴訟の為に郡上の歴史も学んだのだと思う。
宝暦騒動は郡上のそれぞれの「地域の歴史」を振替えるきっかけとなった事件だ。
それは当時の方の自分自身の歴史でもある。
先の伊藤氏は、鷲見大鑑が書かれたのは元禄の頃ではなかったかと言われている。
その根拠の考察はとても学べるものだ。
私はもっと遅いと思うけど。
いずれにしてもこの地に住む人々が往古の昔から先祖の暮らしを振り返ることを始めたのだ。そのためには、書き留めるだけのゆとりがあり、元となる資料も必要だ。
何よりも書くだけのきっかけが必要だ。それが宝暦騒動なのだ。
ところで、喜四郎さんの文書の中にどういうものかわからない文書があった。
白鳥町史・高鷲村史・八幡町史・大和村史などを見て調べたけどわからない。
これと格闘して一日がおわってしまった。

「恐れながら書付をもって申し上げ奉り候
一、去る子年御上意の為と庄屋三十人 御慈悲の上・・・」
誰か教えて!