ラジオ体操で聞いたら、今日は子ども食堂の手伝いがあるので来られないとのこと。
他の子が来るかもと一時間待っていたが誰も来なかった。
こういう日もあるさ。
ラジオ体操の後、昨日忘れ物をしたという子と向拝の下でその忘れ物の算数の問題をやった。これもなかなか良い。
待っていたら、10時には30度になってしまった。
これだと家のクーラーのある所でやった方が楽だな。
ふとこの寺子屋の目的を改めて考えた。
寺子屋の目的は「平和教育」
取り立てての平和教育ではなく、日常の平和教育。
勉強が分らなくて苦しんでいる子は平和ではない。
友だちからいじめられている子も平和ではない。
大人からハラスメントを受けている子も平和ではない。
一人ぼっちの子も平和ではない。
・・・
中日新聞を見ていたら戦争中の日記を紹介していた。その中の言葉。
平和とは「生きたいと思える世界にすること」
3時からはプチ法話会があった。4名の参加。
今回は参院選もあったことだし「政治と宗教」をテーマにした。
一応次の原稿を用意した。(後から編集し直したけど)
「真俗二諦」という言葉がある。
宗教の真理と世俗の真理は異なっているという意味で使われるが、
昔から、「真諦」は仏教における究極の真理、
「世俗諦」は世俗の真理=王法(真諦と一致するとか、王法は守れとか)
ととらえられてきた。
このことから戦前には、仏教の他力や無我が利用されて国家主義を後押しするようになっていた。
そもそもこの言葉は、龍樹の「世俗の真理」と「勝義の真理」からきている。
どちらも真理(サティヤ)なのに、これを上のように漢語に訳したのが原因。
(サティヤ・グラハに飛ぶ)
けど、そのとらえ方が間違っていたというのが最近の説。
真宗辞典を見ると、
真諦=真如法性、真如実相。言説を絶した仏の自内証の正覚の内容。
俗諦=仏の正覚の内容について仮に解き明かされたもの。
となっている。
つまり、俗諦は世俗のことばを使って真理(真如)を表現すること。
これについては、
指月の譬 ( 言葉「 指」と真実「 月」) に書いた。
龍樹が言葉を否定したのは、プラパンチャ(戯論:あやまった論)に対してである。
では戯論(けろん)とは何か。
指月の譬…言葉( 指)と真実( 月)
龍樹菩薩の大智度論に「 指月の譬」がある。
『人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて、 『 われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』、と言うが如く』
これは、言葉と「 指し示されるもの」との異なることを示している。
この譬はとてもわかりやすく、しかも深い意味を持っているので、いろいろな所で使われている。
この喩えを用いて曇鸞大師は次の問いを出す。
『問うていう。名はものがらを示すことばであって、指が月をさし示すようなものである。 もし仏の名号を称えて、その人の願いを満足させることができるというならば、月をさす指が闇を破ることができよう。 もし月をさす指が闇を破ることができないならば、仏の名号を称えても、またどうして、よくその願いを満足させることができるであろうか。』
この曇鸞大師の問いにどう答えるのだろうか。
曇鸞大師の答えは、意外にも名が月であるというものであった。名号は名ではなく月、つまり法( 真理)であるというわけである。
曇鸞大師は、「 名と法とが異ならないものもあり、 名と法と異なるものもある。」と言われる。名号は名と法が異ならないものなのである。
問いから言えば、月をさす指( 名号)が闇を破ることができるというわけである。
これを身体との関係でとらえると分かりやすい。その名や音声が身体に具体的な作用をするということだ。これは、言葉というものにもっと大きな意味を持たせたものだろう。指し示すはたらきとしての言葉ではなく、その言葉自体がはたらきを持つ。
そういえば、言葉は私たちの身体に大きなはたらきを及ぼす。言葉一つで人を殺すことも生かすこともできる。
曇鸞大師は、名号をそうとらえ、名号はまさに名となった仏ととらえたのだ。
では、我が親鸞さんは、この譬をどのように使っているのだろうか。
『( 釈尊が)涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、 「 今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。」
法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。
義に依るとは、義のなかに好悪・罪福・虚実を諍ふことなし、
ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。
人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。 人語りていはん、《 われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。
これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもつてのゆゑに、語に依るべからず。
智に依るとは、智はよく善悪を籌量し分別す。識はつねに楽を求む、正要に入らず。このゆゑに識に依るべからずといへり。
了義経に依るとは、「 一切智人います、仏第一なり。一切諸経書のなかに仏法第一なり。 一切衆のなかに比丘僧第一なり」と。「 無仏世の衆生を、仏これを重罪としたまへり、見仏の善根を種ゑざる人なり」と。{ 以上}』
と直接大智度論を引いている。
その違いが気になる。大智度論には次のように書いてある。
大きな違いは次の点である。
「 義に依るとは、義の中は無諍なり、好悪、罪福、虚実の故に、
語を以って義を得るも、義は語に非ざるなり。」
「 語は義の為に指すも、語は義に非ざるなり。」
つまり、大智度論は、
「 意味は言葉を持って意味を示そうとしているけれど、意味は言葉ではない。 そして、言葉は意味を指し示しているけれども、意味そのものではない。」ということだ。 言葉・言語を否定しているともとれる。
( これについては、龍樹自身の考えではなく、訳者や読み下しの問題であって、龍樹はむしろ親鸞さんと同じ言葉の捉えだったと後で知った。)
龍樹の「空」思想から親鸞の「方便」論へ (山本伸裕)を参照。PDFファイル
ところが、親鸞さんは
「 ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。」
「 語は義の指とす、語は義にあらざるなり。」と読む。
つまり、「 言葉はすでに意味( 教えの内容)を持っている。意味は言葉そのものではない( が)。」
「 言葉は意味を指し示している。言葉は意味そのものではない( けれど)。」
と、明確な違いが認められる。親鸞さんは、言葉を肯定的にとらえている。この違いは、曇鸞大師の譬を意識しているのだろう。 名号そのものが真実を示していると。
そして、仏や祖師の言葉そのものを用いて、真実の教えの内容を示そうとしている。 仏や祖師の言葉の中にすでに真実の教えが示されているのだけれど、私たちは、指ばかり見て月を見ることができないということだろう。
私たちの言葉は口から出る言葉も含まれる。私の口から出た言葉の意味を考えると、それはまさに好悪、罪福、虚実が入り混じっている。 私は、名号という言葉にこだわって肝心の究極的な真実が見えない。
しかし、この指( 名号)がその意味を示しうるのは、ひとえに月の明かりを受けているからなのである。だって暗闇の中では指を見ることはできない。
「指によって月が示されているが、その指はまた月の光沢においてこそ指月の指たりうるのである。」
この譬は、「 究極的な真実」が名号を照らしているということを示している。
「 指し示されるもの」が「 言葉」を照らしているということがわかると、言葉も真実のはたらきであったと思い当たる。(真如がことばを生み出した)
言葉は「 究極の真実」のもつ一つのはたらきなのだ。そして、はたらきは言葉以外にある。いやはたらきは言葉以外の方が多い。そして、それを表現する手段は言葉以外にもたくさんある。(芸術など)
仏法で、「 はたらき」とは真如( 究極の真理)のはたらきであり、仏のはたらきであり、浄土のはたらきである。
曇鸞大師はその真如( 究極真理)のはたらきを二つの言葉で表されておられる。
方便法身と法性法身である。
法性法身とは真如そのものの本体、方便法身とは具体的な形を現した本体のこと。 この二つの本体は、相互に互いを生じさせ、分けることはできない。
どちらもはたらきであり、相互に関わっている。
このはたらきとは衆生済度の仏のはたらきである。
いや、真如そのもののはたらきである。
真如( 仏)は、言葉や行いなどの方便を使わないと指し示すことはできない。また、その真如( 仏)は具体的には様々な方便として私たちの上にはたらいている。
『法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。 この二種の法身は、 異なってはいるが分けることはできない。 一つではあるが同じとすることはできない。』
そもそも『法身(真如・覚りの境地・無上仏)はいろもなし、かたちもましまさず。 しかれば、こころもおよばれず。 ことばもたえり。』
ですから覚り(真理)を言葉で表すことはできません。
でも、「真如自体を言葉で表すことはできないけど、真如からの様々な働きが確実にあるよ」ということです。(それが方便法身のはたらきということです)
「この木の仏は真実の仏を見ることができない私らの為に仮に現れて下さったんや」
「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」