ピタゴラスイッチを見ていたら、雨冠の文字をやっていた。
その中に零は数字とあったので、アレ?と感じた。
零は雨と関係があるのだろうかと。
「元々は小雨(零雨)を意味し、後にわずかな量(零細、零余)の意味にもなった。
そして、究極のわずかな量0を表すようになった。」と書いてあった。
昨日はなごみの法話会。郡上組の取り組みの一つで、毎月各住職が交代で行っている。なごみには介護士に教え子がいる。
この頃、「魂」とか「あの世」という言葉を使わないで、見える世界だけではないことを示せないかと考えている。それは真実の世界=浄土。
私たちもヒンディー語を使っている→ヒンディー語の与格構文→器としての身体→身体は90年ぐらいしか持たない→薄墨桜は1500歳→兆載永劫の仏と比べると90年もあっという間→その短い人生とは何だったのだろう→老いの坂と熊野観心十界図→六道輪廻→俱生神→大きな砂時計→落ちた砂を見る→遊行期→死んだ後何がしたいか→
大体こういうようなことを語った。
終わったら、男の人があちらの世界が見えるという霊媒師の話をしに来られた。
この時ふと感じたのが、修験の山伏のこと。
私の話にはあちらの世界を感じさせる要素があるんだろうな。
介護士の方たちも聞いてくれたのが嬉しかった。