『平泉寺の興亡と開帳の今』

夜、白鳥ふれあい創造館であった「白鳥文化財保護協会特別記念講演『平泉寺の興亡と開帳の今』講師平泉紀房氏」に参加した。

平泉寺には、昨年高鷲文化財保護協会の研修旅行で尋ねた。
今回の講演で今まで聞いていたことが少しずつ繋がってくる楽しさを味わえた。

「死んだらどこへ行くのか」という問いは山の信仰とつながってくる。
山の中に霊魂がとどまっている⇨山の神の発生⇨山への信仰
ヤマ⇨ヤミ⇨ヨミ   ヒラ=坂 ヨモツヒラサカ 平泉もさかの中に湧き出る泉

以上のような、①山への信仰+②水への信仰+③海からの信仰
が重なって白山信仰が生まれた。

 【かうまで申し候ふも御恩のちからなり  ( 山越阿弥陀図と平生業成)】

戦国時代の平泉寺は発掘によって一乗谷朝倉氏と同じくらいの勢力を持っていた。
(これは宋から輸入された陶磁器の量でわかるという)
しかし、一向一揆との戦いで一山燃えつくされる。それを復興したのが顕海上人。
この顕海上人は郡上で匿われていたという。

かって平泉寺には藤島庄という荘園を持っていた。この荘園は義仲や頼朝から認められた平氏没官領だという。平泉寺600坊を運営していくのに経済的基盤は欠かせない。場所はとても良い所だ。そう言えば長瀧の長瀧寺には河上庄があった。なお、高利貸しも大事な財源であったと指摘があった。

白山の神は女神であり、イザナミ・シラヤマヒメ。
ククリヒメを当てるのは、吉田兼倶の勘違いであろうとはっきり指摘された。

5月23日に午前9時半、御神体である女神が33年ぶりに御開帳されるが、その女神は川上御前の御神体をいただいたものであることも語られた。
川上御前とは紙の製法を伝えた女神である。
つまり越前は渡来系の伝説が多く、白山信仰もその影響を受けている。

御開帳は定期的な普請のためのアイディアだったと語られた。
楠木正成の廟があることを初めて知った。

右に南大門と法華堂(法花堂)と常行堂があり、左に講堂がある。
この形式は長瀧寺と同じところと異なる所がある。
両方とも延暦寺の影響なのだろう。