昨夜教え子たちと一緒に天野屋で食べて飲んだ。
彼らはもう定年を迎える。
これからの仕事と勤め方をどうするのかという話を楽しく聞いた。
彼らを一年生の時に担任しただけだけど、時々一緒に飲んでいる。
還暦の同窓会をするというので、メッセージを書いた。
ここに載せてもいいのだろうか?
今朝、BS で「妻亡きあとに~近藤正臣郡上八幡ひとり暮らし」を見た。
何時ものように泣きながら見てしまった。
最初に映った近藤さんの姿にショックを受けた。
あまりにも歳をとり、生気のないお顔をされていた。
でも、二年かけて少しづつ笑顔が浮かぶようになり、
最後に「この頃お腹が空くようになった」と言われた時は嬉しかった。
近藤さんは「老いることは新しい体験だから毎日が発見の連続だ」と言われる。
尿漏れする体験は新しい発見だと言われる。
だから喪失と発見の連続。
郡上八幡ガールズバンドが郡上小唄や郡上節を歌う所で、満面の笑顔が印象的だった。
近藤さんは奥様の介護をずっとしておられた。
買い物シリーズの話は面白かった。
これは、自分をも周りをも常に人生を演じている登場人物として客観視できる役者としてのトレーニングのたまものであろうと感じる。
奥様が亡くなってから「腹が減った」と感じるまで二年かかっている。
「同窓会の皆さんへのメッセージ」
この年になると、昔のことが突然浮かんでくることがあります。
思い出すというよりも浮かんでくるのです。思い出は過去のことで、過ぎ去って後ろにあるように感じますが、「以前」という言葉が示すように前のことなのです。私たちは未来を私の前にあると考えていますが、私の前にあるのは過去なのです。そもそも、未来は私には見えません。
さて、皆さんの学年には思い入れがあります。
羽島の竹鼻小学校で5・6年生を担任し、八中に来て、1年4組を担任しました。ところが西和良中へ移動することになり、2・3年を担任することを希望しました。合計5年間の持ち上がりですが、ずっと持ち上がって一緒に学び合いながら成長を感じることが実に楽しかったことと、彼らがどこかで出会うのではないかという希望もあったのです。
過去の様々な出来事は経験として蓄積されています。最近は僧侶としての仕事が多くて、仏教を中心に考えていますが、経験は間違いなく私の中に蓄積されています。ぼけて忘れてしまってもどこか蓄積されているのです。
そして、この頃はそういう経験の意味を考えるようになりました。
人生の意味を考えるために人生の経験があったと感じるくらいです。
「私の人生は豊かで何の後悔もない」と思ったことは一度もありません。
後悔ばかりの人生でした。
情けなかった・恥ずかしかったという不実
力足りなかった・できなかったという無力
知らなかった・知らないことばかりという無知
と、三拍子そろっています。
でも、知らないことばかりだからこそ、新しいコトに出会うと新鮮です。
できなかったことばかりだからこそ、小さなコトを成す喜びが湧きます。
なさけない自分であることを知っているので、思いやりが持てます。
ここまで老人の妄想に付き合ってくださってありがとうございました。
2025年3月19日 南無阿弥陀仏