メリトクラシーのもとでの垂直的序列化と水平的画一化

考えが進むと面白い。
でも、老化した脳は同じところをぐるぐる回っている。
それが進むから面白いのだけど、やっぱり同じところを回っている方が多い。
で、どうやって前に進むのかというと身体を使うに限る。

図形の証明を考えている時、
まず、その図形を何もなくても頭に浮かぶまで何度も作図して身につける。
次に頭の中で操作できるようにいろいろ確かめる。(これも図の中に書き込んで)
つまり、その現象を自分のモノにするのだ。
そして、スタートとゴールをはっきりとさせる。
考えられうることを全て試してみる。
すると、何もアイディアが思い浮かばなくなる。
その時は寝る。
寝ると朝起きた時に降ってくる。

大体こんな感じだから、この方式でいろいろな問題を解いている。
現在は「人間発達の福祉国家論」の理解がこの問題だ。
そもそもこの本は読むに値する本なのだろうか。
読んでいると、わからないことばかりだけど、何か引っかかる。
で、やっぱり「理解したい」と目標を持つ。
そのために、使われている概念を自分のものにする。
それはその言葉を使ってみることが一番近道。
つまり、書いて書いて書きまくる。
使われている文章を写すうちに、その言葉を用いて新しい文章ができる。
次に、論理構造だ。
これは矢印で図にする。
そうすると、疑問が出てくる。
その疑問の答えを書くと言葉が段々と自分のモノになってくる。

そうやっているうちに、「メリトクラシー」と「職務遂行能力」という言葉を知った。
そこから自分自身が子どもたちの通知表を作る時に苦しんだことを思いだす。
教えることは楽しかったけど、評価することが一番の苦しみだったのだ。
「新学力観」が出てきたときなどは、意欲、感心、態度の評価で悩みまくった。
知識・技能・思考はテストで何とか測れる。
仕方がないので仮の評価基準を設定した。
そして、子どもたちには「これは君の全ての評価ではない。ほんの一部分の評価だ。間違ってもこれで自分の値打ちを決めないで欲しい」と語った。
だけど、それは虚しかった。
子どもたちはテストの点を一点でも多くしようとし、
態度の評価ではそれが絶対的だと考え、成績で自分の値打ち計ってしまっていた。

これが、どこから来たのかがようやくつかめてきた。
企業における人事考課=査定方式は、能力考課・成績考課・情意考課から構成されていいた。最後の情意考課は、「態度・性格・関心」「やる気、適応性、協調性」などを評価する。これが企業が期待する職能であって、人格面の管理・統制・支配力を強める働きをする。
つまり、人格をも評価しているということなのだ。

私も子どもたちに同じような評価をしていたし、教師である私も同じように評価されていたのだ。


雪かきは、
何が起こるかわからない未来に対する予防的な仕事だということに気がついた。
本堂の裏につづっていた雪は落ちていた。