読書会で、私は「挑発的な発言」をする時がある。
聞いている人は、批判されたように感じたり、混乱してしまう。
私がそう言ってしまうのはなぜだろうか。
一つは、「読みは人それぞれ」を克服する「共同的な読み」はどうやって可能なのかを追求したいこと。
もう一つは、単純に文章に感動するのではなく、引っかかる所をさらに広げていくという「私自身の読み方」から来ている。
例えば、「AI自身にはそのデジタル情報の意味がわからない」
という文章に出会う。
そうあって欲しいと思うので、共感したい気持ちが出てくる。
でも、これを「命題としてとらえてはいけない」と感じる。
だって、「AIには意味がわからない」と受け取ると、「では人間には意味がわかっているのか」と、反射的な問いが出てくるからだ。
私たちは意味を解っているのだろうか?
意味がわかっていると思っているだけではないだろうか?
ところで意味って何だろう?
意味がわかるってどうすることなんだろう?
そんな疑問が出てきて、問題が広がってくる。
読書会で取り上げている本の要約をまとめて下さった方がいる。
その方が、「以前に出したまとめは、AIにさせたものだ」と言われた。
私はそのまとめを印刷して利用していたが、多分これはAIにさせたものだろうと
感じていた。
それは、文章やまとめ方がおかしいからそう感じたのではなく、彼ならそうするだろうと思ったからだ。
AIの要約はなかなかのものだ。実際に、読書会に参加している人はこれを人間が行ったと思っていた。つまり、AIは「要約によって意味をつかんでいる人間」と変わらないということになる。
そうすると、AIの出現によって「人間にとっての意味」とか「わかるということ」などは何だろうかという問いが生まれる。
つまり、AIのやっていることによって人間の認識が問われているのだ。
そもそも、AIは人間の脳のニューロンのはたらきをモデルにして構成されたものだから、AIのやっていることが逆に人間の認識を問うという方向を指し示しているのは自然な流れだと思う。
(もう一つ、AIによって人間の方がAI的な思考(確率的な)をしているのではないか心配)
チューリングのテストというのがあって、「対話している相手が人間だと感じれば、その相手であるAIは人間の知性を持っていると判断できる」というものだ。
現在のAIは十分に合格しているように感じる。
では、先ほどからやっているように、人間と話して同じテストをやったらどうだろうか。対話している相手に知性を感じるのかどうかということが考えられる。
どうもチューリングはこちらからこのテストを考え出したような気がする。
私の結論は、こういう考察や読みそのものが「意味」そのモノであり、意味がわかるということは、つながりがわかるということであり、そのつながりは具体的な人との交流の中から生まれる。
そして、このことこそ「人間の発達」ではないかと感じる。
もちろんAIの方もすごい速度で発達しているけど、負けてはいられない。
さて、ここで元の文章に戻ると、
「AI自身にはそのデジタル情報の意味がわからない、といわれているのは、そのためである」と書いてある。
「その=人間にとって意味ある情報は、言葉による情報である」と書いてあるので、このことを示したい論拠としてあげたにすぎないだけなのだ。
で、私たちはその意味ある情報=言葉を大事にしているのだろうか?
ただし、私は初めからこう読んでいたわけではなく、「読書会の共同的な読み」によって読めたのだ。