枕草子は極めて政治的な文学

先日のプチ法話会で一条天皇の辞世の句を取り上げた。

露の身の風の宿りに君を置きて 塵を出でぬること・・・

「光る君」ではここでこと切れる。
この続きを道長は「をこそ思え」と日記に書いた。
つまり、この君は彰子のことだと。
「私はこの露の身の宿りとしていたこの世界に貴方を残して行くが、やっと塵界を出て浄土へ行くことができると思ってほしい」というような意味だろうか。

ところが行成の権記には「ぞ悲しき」と書いてあるという。
実は定子の辞世の句は

煙とも雲ともならぬ身なれども 草葉の露をそれとながめよ

この句を見ると、一条も露のことを詠っているのでリンクしている。
が、「置きて」という言葉に違和感を感じる。
というのは定子は10年も前に死んでいるからだ。
でも当時、妊娠や出産で亡くなった女性は成仏できないと考えられていたらしいので、先に死んだ定子をこの塵界に残していくのは悲しいことだというのもうなずける。

ここで言いたいのは、どちらかということではなく、和歌も極めて政治的なものだということだ。道長はだからこそ、そう書いたのだし、行成はそれをあいまいにしている。

そして、あの「枕草子」も単なる雅な随筆ではなく、極めて政治的な書であったということだ。オピニオンリーダーとしての定子を強調することは、逆にその裏にあるドロドロしたもっと政治的なものを強調している。
当時の人たちにはそれを読み取ることができたのだろう。

衆院選挙のことがなければこの後半の事は考えなかった。
プチ法話会ではどちらでしょうかで終わっている。