「牛を売る者あり。買ふ人、明日、その
値 をやりて、牛 を取 らんといふ。夜の間 に牛死ぬ。買 はんとする人に利あり、売らんとする人に損あり」と語 る人あり。
これを聞きて、かたへなる者の云 はく、「牛の主 、まことに損ありといへども、また、大きなる利あり。その故は、生 あるもの、死の近き事を知らざる事、牛、既にしかなり。人、また同じ。はからざるに牛は死し、はからざるに主 は存 ぜり。一日の命、万金 よりも重 し。牛の値 、鵝毛 よりも軽し。万金 を得 て一銭を失はん人、損ありと言ふべからず」と言ふに、皆人嘲 りて、「その理 は、牛の主に限るべからず」と言ふに、皆人嘲りて、「その理は。牛の主に限るべからず」と言ふ。
また云 はく、「されば、人、死を憎 まば、生 を愛すべし。存命 の喜び、日々に楽しまざらんや。愚 かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外 の楽 しびを求 め、この財 を忘れて、危 く他の財 を貪るには、志満つ事なし。行ける間 、生を楽しまずして、死に臨 みて死を恐 れば、この理 あるべからず。人皆生を楽 しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐 れざるにはあらず、死の近き事を忘 るゝなり。もしまた、生死 の相 にあづからずといはば、実 の理 を得 たりといふべし」と言ふに、人、いよいよ嘲 る。
『無常といふ事』を久しぶりに読んだ。
各章はとても短いがさっぱりわからなかったことを思い出す。
兼好法師は批評家であると言い切ったのがこの章の主題なのだろう。
「空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件」とまで言い切っている。
その中に「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり」という引用がある。
この言葉は厭世観からではない、彼は厭世観なぞを信用していない、
と言い切っている。
その段が上のもので、この九十三段はとても面白い。確かに批評家だ。
小林は次のように述べている。
『現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかってゐない。常なるものを見失ったからである。』
では常なるものとは何か?
「解釈を拒絶して動じないもの」
「過去の方で僕らに余計な思ひをさせないだけ」
「生きている人間とは、人間になるつつある一種の動物」
「心を虚しくして思い出すことができないから動物に止る」
つまり、小林は「常ならないのが世界」という無常のとらえ方ではなく、
「常なるものがある」と考えていた。
だからこそ常ならない私たちが鮮明に浮かび上がると。
このなま女房のことが出ている「一言芳談抄」を見ていたら、
気になる法然上人の言葉が見つかった。
法然上人の云はく、「道心をば、盗みて発したるがよきなり」
これはどういう意味だろうか?
求道心は人から奪い取るように発するものという意味だろうか。
さらにこの言葉もある。
又云はく、「赤子念仏がよきなり」。さかしだちたることども聞こし召して、仰せられて云はく、「身のほど知らずの、物覚えず」。
これも沁みる。