飛騨白川から美濃上有知へ行くルートを調べていると、
郡上川をどのように渡っていたのかが気になってくる。
本流へ流れ込む小さい川には橋を架けていた。
そしてその費用や人足は使用する村々の人たちで分担した。
本川には当然橋はないので渡し。
筏や船を使って渡るのだが、牛や馬はどうしたのだろうか?
向鷲見では水が少ない時は浅い所を何とか渡ることができるが、
向鷲見口から切立を通り阿多岐へ出て牛道を通るルートが普通だった
と高鷲村史に書いてあった。(牛道の語源)
確かにこのルートなら下田まで本川を渡る必要はない。
越前街道では白鳥の大島で渡る。もちろん船か筏。
下田村は船問屋があって川を下って美濃市まで運んだ。
継宿では馬の用意もあった。
油荏は食用、油紙、雨傘、ちょうちんなどの防水加工に用いたという。
美濃市には和紙が集まったから油紙や雨傘の為に用いたと思われる。
牛を使って運んだというコトは、途中の馬の借り賃を節約することもあるけど、牛の食料も当然必要となる。
さらに口番所の役銭は、油荏1貫目につき8文。茶にも役銭がかかるから行も帰りも口番所で税金を取られる。さらに途中の宿で口銭がかかるのでかなりの出費になる。
当時の運搬にはかなり費用が掛かるということだ。
これらは大和村史で調べた。
この地図を見ると、剣宿を通らないコースもあった。
大雨の長良川
「さかまき」がこのようになっているのを久しぶりに見た。