幸仏信明

三部経で「幸」という字を検索したら、大無量寿経の中の讃仏偈の一か所しか出てこなかった。
しかも、意味は「さいわい」ではなく「ねがい」。
これはどういう意味だろうか?

幸仏信明 是我真証 発願於彼 力精所欲

幸(ねが)はくは仏(世自在王仏)、信明したまへ、これわが真証なり。
願を発して、かしこにして所欲を力精せん。
願わくは、師の仏よ、この志を認めたまえ。それこそわたしにとってまことの証である。
わたしはこのように願をたて、必ず果しとげないではおかない。

ねがい→希望→ゆめ→さいわい
ということだろうか。
この「ねがい」は、四十八願の「ねがい」とは方向が違うからこそ、違う文字を用いたのだと思う。
私の志を仏から認められることこそが証なのだ。そしてめぐみ(幸)なのだ。

今日は腰が痛いけど幸いである。