「鷲見氏・鷲見郷一覧」の校正が終わる

3回目の校正が終了して、データを送った。
今日のうちに編集されたPDFファイルが届いた。
便利な世の中になったものだ。
それを見て、少し手直しを依頼したらまたまたすぐに送っていただいた。
後は製本に入るだけだが、まだ見てもらわなければならない人がいて、待ってもらっている。

藤原頼保の和歌を入れるかどうかで、詞花和歌集や千載集を調べた。

まず千載集

藤原惟規  紫式部の兄(682首)
たのめとやいなとやいかにいな舟のしはしとまちしほともへにけり

作者が違っていると思って聞いてみる。
すると、続詞花和歌集に載っているというので調べる。

塙保己一師の群書類従の中に「続詞花和歌集」があった。
これを見ると、藤原惟規と藤原頼保が並んでいる。
どうやら左右を勘違いしていたようだ。作者を取り違えていたことがわかる。

この歌集の10ページ目でそれがわかる。頼保の歌は次のページに載っている。

いかならむ言の葉にてかなびくべき恋しといふはかひなかりけり

この歌をさらに調べてみる。
というのはこれは「なびく」としか読めないのに引用には「磨く」と書いてあるからだ。まず「磨く」ではなく「なびく」であることがわかる。
この歌は詞花和歌集にも載っている。

さらに調べると、この歌は、右衛門督家歌合(うえもんのかみけうたあわせ)で歌われていて、作成年月日は、久安五年六月二十八日(1149年8月3日)となっている。(3ページ「散位頼保」、源頼政も並んでいる。歌は14ページ。)散位についてはこれも面白い。右衛門督とは家成のことで、彼は頼保の兄で1154年に47歳で亡くなっているので、この時42歳。

山塊記には「1160年左衛門少尉正六位上藤原頼保検非違使尉補任」と書いてあるという。

歌合せの時の頼保を若く見積もって20代とする。
検非違使になったのが1160年で30代、史料総覧によると「治承3年1月(1179年)中宮大進藤原頼保卒ス」と書いてあるので50代で亡くなったか。

村史(鷲見家史蹟)には亡くなったのが1204年なので、80歳まで生きたことになる。

勘違いのおかげでここまで到達することができた。
セレンデピティである。

よく見たら、右衛門督家歌合に頼保の歌が他に二首あった。

夜とても寝られさりけり秋の月光は昼のここちのみして

心には秋もはてぬを長月のこよひばかりときくかわりなき