中世の武士と和歌

佐々木幸綱氏と小和田哲男氏と竹島一希氏による講演と鼎談があった。

武士と和歌といえば太田道灌の山吹の話は有名。
そういえば享徳の乱東常縁と太田道灌は一緒だったはずだけど、会ったことがあるのではないか。
そういうことを想像しながらお三方の話を聞いた。

今回のテーマは「武士はなぜ和歌を詠んだのか」「日本人にとっての和歌とは何か」「武家社会における文化の価値」「和歌・連歌の効用」

以前「武士はなぜ歌を詠むのか」を読んだがすっかり忘れてしまっている。
まず、佐々木師から大岡信氏の『うたげと孤心』を紹介していただいた。
一人と大勢の往来が歌。歌合せ→講→結社→批評会→
流鏑馬や歌合せは神仏への奉納。
身体を使って神仏に届ける。だから歌は声に出して詠む。
弧は古人との対話の積み重ねの中に成立する。
活字に変わったことで詠むということが分からなくなったのではないか。

小和田師からは
「武将の必須教養だった和歌・連歌
武将は弓馬だけでなく、音楽、和歌連歌、将棋囲碁、料理、立花を身につけた。
(そういえば鷲見長門守が大番で料理をしたな)
「歌によって命を救われ、所領を取り戻した例も」
今川義元と東常縁や細川幽斎の例
篠脇城が攻められたのは、応仁文明の乱で斎藤妙椿が山名方で細川方の東氏を攻めたと書いてある。さらに取り戻したのは、常縁の歌→濱式部少輔春利→康慶→妙椿と京都歌壇で評判になったからである。
関東での戦で忙しかったから歌を歌えなかったというのは思い込み。
「常縁から宗祇への古今伝授」
三島大社で二度にわたって受ける。
「もう一つの必須教養だった茶の湯

竹島一希師からは「和歌・連歌の”効用”」
(一)同輩との繋がり   一揆連歌講との関連
(二)頼朝以来の伝統   足利将軍が勅撰和歌集を執奏・和歌は出世の手段
(三)神仏との繋がり
常縁が息子が風邪で患ったとき、三島大社に三日で千句をつくって奉納する。
歌によって祖先の霊魂をも「あはれ」と思わせる。
霊魂を感動させるのが歌なのだ。

         『三社託宣の三角形図式』
            神鏡 正直
            天照大御神
             天皇
          /      \
       神璽 慈悲    宝剣 刑罰(清浄)
       春日大明神     八幡大菩薩
        公家         武家

この図式は常縁の時代頃に成立し、彼も自覚していただろうし、古今伝授はこの土台の上に伝わっていったという。この説は面白い。

権門体制論