泰澄大師の伝説と大日岳への道

町民センターの日「鮎走白山神社の歴史について」

川尻さんから説明していただいた。その後三島さんから昔の中切の話を伺った。

修験道の宿としていろいろな資料が残っている。
この修験道は大日岳と白山の修験道

f:id:bunryuK:20211014074244j:plain

道刈り案内の象徴の道具

f:id:bunryuK:20211014074315j:plain

泰澄大師の伝説はどうして生まれたのだろうか。
多分後世のものだと思われるけど、それはなぜ生まれたのか。
鷲見氏に関する寄進の記録もある。

三島さんから三村絵図を見ながら大日岳への幾つもの道について教えていただいた。
その山道はナギ畑や田んぼや炭窯に行く道。
小屋があってそこに寝泊まりして作業をした。
隣りどおしの小屋に集まってどぶろくを飲んで語り合ったという。
中切に白山神社があることは地図にのっているが、寺があったことは寺平という字名があるし、国道を拡張した時五輪の塔が出てきたこと、たびたび土砂崩れがあったことからはっきりした。
中洞水路(空山用水)は昭和になってできた。
郡上川がもっと左寄りに流れていたことも分かった。

荘園についてわからないことが出てきたので、伊藤俊一氏の本(荘園を知らずして日本の中世はわからない)を買ってきて読み始めた。謎が深まるばかり。
荘園は、墾田永年私財法から応仁の乱まで750年も続く持続的なシステムだったとも言える。

腫れは引いたけど、まだ顔がかゆい。薪(焚き付け)を切った。