「象は鼻が長い」

象は鼻が長い」の主語は何か?

こう問われると、いろいろ悩む。
しかし、そもそも「主語はどれだろうかと考えるのはなぜ?」
という問いを持つ人は少ない。

この「象は鼻が長い」という題の本の著者三上章氏は、そもそもこの文には「主語」という概念は必要ないと主張される。
この文にある「は」や「が」は主語を示しているのではない。
例えば「は」二つ以上の働きをしている。一つは「象についていえば」という提題。
もう一つは、「象の鼻」という「の」代行。

これはとても面白い。
「数学なぜ勉強するの」と「数学なぜ勉強するの」では全く異なる。
以前、「雨が降る」と「It rain」を比べたことがある。⇒【エモイって他力?
中学生の時に、この英語の表現を奇妙に感じたことを思い出す。

「この本は面白い」は英語ではどう表すんだろうか?
そう考えると、この文の意味が広がってくるし、日本語の特質も見えてくる。
「机の上には本がある」「本は机の上にある」の違いも同様だ。

「私に名案があります」は、英語では「私は名案を持っています」となるんだろう。
でもこれは大きく異なる。
この文には主語という概念では括れないし、それはなぜかわかってくる。

英語の絶対的な主語「」があまりにも特権化されていて、それが外国語として英語を学んだ私たちに知らず知らずに影響を与えていると思われる。

それに対して、
「気がする」「気が利く」「気が向く」「気が短い」「気が気でない」の気。
著者は「気」は主語だと言われる。これも面白い。
私たちは「気」を主語と自覚しているのだろうか。

さらにヒンディ語の与格構文との関連も面白いと思う。
これらは「他力」へと導くのだ。
「私は~したい」⇒「夢は~だ」⇒「いろいろな出会いが私を~へ導いた」

無対辞の思想

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