レンマの論理 その2

以前考えたことを最初に紹介。

 90差別と多様性と同一化
・・・違うものの中に同一性を見つける  なぜ差別をするのか                   (2007.11)

これは、同値律の別の形だと思う。
差異の中の「同じ」を見つけるのだけど、形式論理から言ったら少し違和感を感じる。
でも、この最後の問題は、レンマの論理を使えば簡単に解ける。

私たちは、A『違うモノを同じモノと見ているのか』、B『同じモノを違うモノと見ているのか』、どちらなのでしょう?

Aでもないし、Bでもない。だからAでもあるしBでもある。
確かにこう言えるけど何だかすっきりしない。
最後のAやBは元のA,Bとは違うものなのだけど…。

この問題は、対立なのか矛盾なのか。
どちらでもなく単なる差異。
私の感覚としてはBの方が良いと思うけど、Aでもおかしくはない。

             同じコト(法則)
違うモノの中に同一性を見る ↑   ↓  同じコトの中に差異を見る
             違うモノ(現象)

法則=真如。右の矢印を方便ととらえることもできる。
これは電子の波動性と粒子性ほどには対立していない差異。

ところで、このレンマ的論理は必要なのか?
という根本的な問いが出てくる。
木岡氏は、「近代は二元論によって自然と人間の対立というような枠組みでとらえられている。そして、それはロゴス的論理によって人間による人間の支配が自然支配を強化するという形で問題を深刻化させている。このロゴスによる一元支配を破るための『歯止め』にレンマが役立つはずだ」と述べている。

これはとても魅力的で実はそこに魅かれたのでこの本を読んでいる。
読んでいるととてもよくわかり、魅かれてしまうのだけど、むしろそこが問題なのかもしれない。

 ロゴス的思考(二元論+形式論理)は私たちが日常している。
と同時にレンマ的思考(おかげ様)も日常している。
友人が新聞に投稿した記事が見事にそれを示している。

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A「自分のことは自分でする」←→B「自分のことを自分でできない」
Aは良いことだとすると、Bは悪いことになるのが、私たちのロゴス的思考。
それに対して、この記事の様にAでもありBでもあるという考え方がレンマの思考。

Bが悪いことだとすると、障がいのある人は生きていけないし、学級の中にあるいじめの原因ともなる。でもこの記事が理解できるということは、私たちの日常の中にレンマ的な思考もあるということを示している。

ただ、この時に、私たちは「Aは良いことで、Bは悪いこと」が間違っているととらえると、今度は「Aは悪いことで、Bが良いこと」とつい考えてしまう。
これはロゴスの論理というよりは煩悩(私たちの癖)。
そうではない。子どもの頃、自分のことが自分でできるようになることが喜びであったように、Aには頑張って成長を促す働きもあったのだ。
だからこそ、レンマの論理は、「Aが善」でもなく「Bが悪」でもない。即ち「Aが善」でもあり「Bが悪」でもあるのだ。(混乱するけどこれが龍樹の論理)

 つまり、AでもありBでもありというのは、AでもなくBでもないという論理を含んでいるのだ。